中村獅童の再婚した妻や子供について!病気はがんで近況も調べてみた

  • 中村獅童は1972年9月14日生まれ
  • 2002年、映画『ピンポン』にてドラゴン役で出演。各新人賞5冠を受賞し、これ以降、多数の映画やドラマに出演するようになる
  • 2021年11月26日、翌年1月2~27日に行う歌舞伎座『壽 初春大歌舞伎』の会見で、3歳の息子・小川陽喜と共に出席

中村獅童のプロフィール

名前 中村獅童(2代目) (なかむらしどう)
職業
所属事務所
誕生日 1972年9月14日
年齢 51歳
身長 177cm
血液型 O型
出身地 東京
外部リンク

 

性格

  • 歌舞伎愛と家族愛
  • こだわりが強い
  • 目立ちたがり屋なんだけど、引っ込み思案

厳つい顔が特徴ながら、自身のインスタやYoutubeチャンネルで、息子の写真を挙げることが多い中村獅童さん。

そんな「親バカ」な一面を見せる中村獅童さんは、「一人っ子」だったそうで、ご両親の愛情を一身に受けて育ったと明かし、「生まれてから今まで、両親そして家族は、どんなときも僕の原動力になっています。」

と、2021年4月9日に掲載された『産経新聞 話の肖像画(20)』で語っていました。

特に、中村獅童さんが「歌舞伎役者」を志したときには、お父様は「中村獅童事務所」を立ち上げ、間接的なマネジメントを担当。

そして、お母様の小川陽子さんは「歌舞伎役者」である中村獅童さんの世話を直接的に行うことを主に担当し、鏡台など重い小道具を担ぎ上げ、階段を何度も往復したり、周りから「この子に役者は無理」や「あきらめた方がいい」と言った「悪意の言葉」をニコニコ笑って聞き流しながら、内心「絶対『獅童を役者にしてみせる』と思った。」

と、トークショーにてお母様自身が語っていたと、中村獅童さんが明かしていました。

そんなお母様でしたが、2013年12月17日に、浴室と脱衣所の温度差などが原因とされる血圧の急上下-いわゆる「ヒートショック」を起こし、浴室で亡くなってしまいます。

中村獅童さんはその報告を受けると、気が動転したと明かしており、それでも何とか舞台の千秋楽となる25日まで役を勤めあげ、その後に行われた葬儀の中で、「中村獅童は『小川陽子が作った最高傑作だった』と、言われるような役者になれるよう、頑張ります。」

と、誓っていました。

そしてその誓いを守るかのように、2015年6月に京都南座で、「絵本」を原作とし新作歌舞伎『あらしのよるに』や、2016年4月29日から30日にかけて、幕張メッセで開催された『ニコニコ超会議』にて、音声合成システム「VOCALOID」のキャラ「初音ミク」とのコラボ企画『超歌舞伎』を開催し、それぞれ人気を博しており、どちらも定期的な公演を行っています。

ちなみに新作歌舞伎『あらしのよるに』は、お母様が企画書を劇場の松竹へ提出したそうで、お母様の「遺作」のようなモノであると明かしたほか、中村獅童さんの長男である小川陽喜(おがわ はるき)君が大好きな「歌舞伎」の演目だそうで、中村獅童さんは、「次男の夏幹(なつき)と、兄弟揃って『がぶ』役と『めい』役で共演してくれたら、嬉しいです。」

と、2021年4月3日に掲載された『産経新聞 話の肖像画(14)』で、理想を語っていました。

以下の動画は、2021年4月24日・25日に『ニコニコネット超会議2021』で公開された超歌舞伎『御伽草紙戀姿絵(おとぎぞうしこいのすがたえ)』のダイジェスト動画となります!

そのほか、「歌舞伎」ではお客様による「声掛け」も大切とされていますが、「素人が声を掛けてはいけないワケではないが、他のお客様にヤジや雑音と思われるような場合はやめて欲しい。」

と、松竹座の支配人が明かしているほか、2011年4月からは毎月1回のペースで、「声掛け」のタイミングや声音を教えてくれる「関西・歌舞伎を愛する会」による勉強会が行われています。

中村獅童さんの場合、屋号である「萬屋(よろずや)」や名跡の代目から「二代目」と、「声掛け」すれば良いとのこと。

 

特技

  • ロック
  • サーフィン

小学生の頃に、デュラン・デュラン、マドンナ、マイケル・ジャクソンなどのポップスにハマったと語る中村獅童さん。

そこから中学や高校時代の「歌舞伎」から距離を取っていた時には、「バンド」活動をしていたそうで、「反抗期」も兼ねて「髪をブロンドに染める」などをしていまいしたが、お母様からは「いいわね、それ! 写真に撮りましょ!」

と、言われ、お祖母様からは「そういうのは、どんどんやりなさい。歌舞伎とかも含めて、表現することは、色々な夢に繋がるから。」

と、言葉をもらったほか、中村獅童さんが参加した新宿のライブでは、誰よりも目立つところでお母様が、黒いサングラスとショールを身につけ踊っていたおり、イマイチ「反抗期」が上手く決まらなかったと、2020年7月26日にTBSラジオで放送された『コシノジュンコ MASACA』で、振り返っています。

さらに、中村獅童さんがまだ「無名」だった頃には、「ロックバンドもやる歌舞伎役者」と紹介されていたそうで、十八代目中村勘三郎さんに連れられたバーでは、ロック歌手だった内田裕也さんに、「てめえか、ロッケンロールの歌舞伎役者は。」

と、話しかけられたと、2021年3月30日に掲載された『産経新聞 話の肖像画(10)』で語っていました。

その後、内田裕也さんから2人で飲みに誘われたそうで、朝まで飲んだ後、中村獅童さんが「タクシー」を拾い走りだすと、後ろでは内田裕也さんが頭を下げており、「無名の若造」にも関わらず丁寧に送り出してもらい、そこから内田裕也さんの大ファンになったと、明かしています。

また、中村獅童さんが「不祥事」を起こし、世間から大バッシングを受けた際には、「やってしまったことは彼が悪いし、調子に乗っちゃったのかなと思うけれど、獅童はこういうことで沈んでいくような役者ではないだろう。」

と、大バッシングの中、中村獅童さんを案ずる言葉をだしたのが、とても嬉しく感じたと、振り返っていました。

そんな縁がある中村獅童さんは、内田裕也さんのロックフェスに4~5回参加させてもらったと明かしているほか、現在でも「バンド」活動を続けており、「高樹町ミサイルズ」という名前の「バンド」で、仲野茂(なかの しげる)さんと「ボーカル」を務め、2017年に初のライブツアー『ACTOR’S NIGHT TOUR』を、福岡・東京・愛知の3都市で開催されていました。

さらに、休みの日にはロングボードでの「サーフィン」をしているとのこと。

そのほか、「再婚」を期に「禁煙」中であると、明かしています。

趣味

  • ラーメン作り
  • プロレス観戦
  • 映画鑑賞

中村獅童さんは、「一日三食ラーメンでも構わない」と公言するほどの「ラーメン好き」で知られ、2012年7月21日には神奈川県屈指の人気ラーメン店「麺やBar 渦」とコラボし、『湘南獅龍麺(しょうなんしりゅうめん)』を限定販売していました。

ちなみに『湘南獅龍麺』は大好評を博し、2012年11月19日には「東洋水産」から、『マルちゃん 湘南獅龍麺 醤油味』が発売されています。

そんな本格的な「ラーメン作り」をする中村獅童さんは、2019年7月15日に朝日系列のABCテレビ放送された『なるみ・岡村の過ぎるTV』で、「料理に時間とお金をかける男性」が、女性から最も理解できない「男性のこだわり」であると明かされた際、「料理? 別に、時間とお金かけていいじゃん。」

と、不満げな表情をした後、「僕は家でも、業務用の寸胴鍋を使ってラーメンのスープ作ったりしますね。スープを作る際には、鶏がらスープなら魚介入れたり野菜を入れたりして、6~8時間ぐらいかけて作ります。」

と、「ラーメン愛」を語ったほか、2020年5月22日に投稿した自身のインスタグラムでは、本格的な「二郎系ラーメン」を作り、ネット上で話題になりました。

また「料理」に関連して、こだわりの強い中村獅童さんとお母様は、食事に行くと必ず「ケンカ」になっていたそうで、お母様が亡くなる2日前にも居酒屋で「ケンカ」をしてしまったと言います。

「ケンカ」をする中村獅童さんとお母様の間に立った奥様からは、中村獅童さんが「謝罪」するよう言われていたそうですが、謝る前にお母様は亡くなってしまい、その後実家の整理をしていると、中村獅童さんと奥様も好きだった「ビーフシチュー」が入っていたと明かし、「人が作ってくださったモノに対して、もっともっと感じながら、食べないといけないと思った。」

と、2020年3月28日にTBSで放送された『人生最高レストラン』で、語っていました。

さらに、中村獅童さんは、幼少期から「プロレス」好きであることを明かしており、特に「プロレス」と「歌舞伎」風メイクを組み合わせた「ザ・グレート・カブキ」選手は、今も憧れる「ヒーロー」だと、 2021年5月30日に日本テレビで放送されたトークバラエティ番組『行列のできる法律相談所』で語っています。

そのほか、好きなアクセサリーブランドは「クロムハーツ」とのこと。

デビューのきっかけ

6歳の頃から、中村獅童さんは「仮面ライダー」や「ウルトラマン」などの「変身ヒーロー」に憧れを抱いてそうで、お父様の親戚や従兄が演じる「歌舞伎」を見た際、「今まで見たことのない異空間というか、夢の空間というのを、子供ながらに肌で伝わってきた。『ここに入れば変身できる!』って、変身願望が強かったんです。」

と、2020年7月26日にTBSラジオで放送された『コシノジュンコ MASACA』で、振り返っていました。

そんな「夢の空間」に憧れを抱いた中村獅童さんは、家族に「歌舞伎をやりたい」と示したそうで、この時から「日本舞踊」と「長唄」を習い始めたと言います。

そして中村獅童さんが8歳の時、6月歌舞伎座『妹背山婦女庭訓』「御殿」の豆腐買の娘・おひろ役で初舞台、他の同門3名とともに襲名披露を行い、『二代目中村獅童』として、「歌舞伎」デビューを果たしました。

しかし、中村獅童さんが歩んだ道は、同じ日に襲名した従兄弟達よりも険しい道でした。

事の発端はお父様のせいで、お父様は10代前半の頃、お父様の弟さん達に理不尽な説教をしてきた大幹部である役者に、「羽二重(はぶたえ)」というカツラを付けるときの布を投げつけたと言います。

「歌舞伎」は上下関係の厳しい業界であり、理不尽な説教から弟を守るためとはいえ、大先輩にモノを投げつけるのは言語道断であり、お父様は自ら「歌舞伎役者」の座を降りるという「事件」がありました。

そんな経緯があるため、お父様の息子である中村獅童さんには、師匠も付き人も不在となり、お母様がその代わりを務め、中村獅童さんを支えています。

けれど、子役を過ぎた中学時代から中村獅童さんに役が回らなくなっていき、中村獅童さんは「歌舞伎」の世界から、徐々に距離を置くようになってしまいますが、「歌舞伎」から離れれば離れるほど、「歌舞伎」がしたいと感じたと、語っていました。

しかし、家族は中村獅童さんが「歌舞伎」の道へ進むのだけは反対しており、「歌舞伎」のゴッドマザーで知られたお祖母様である、小川ひなさんは亡くなる直前、「せっかく襲名したけれど、獅童を『歌舞伎役者』にするのは諦めなさい。歌舞伎界で父親がいないというのは、首がないのと同じこと。」

と、中村獅童さんのご両親に忠告したと、2021年3月25日に掲載された『産経新聞 話の肖像画(5)』で、 中村獅童さんが明かしています。

そんな家族の反対に遭いながらも、もうすぐ20歳を迎えようとするタイミングで、中村獅童さんは「自分のしたいこと」を思い直したそうで、やはり「歌舞伎役者」になることを、この時に決意したと、語っていました。

中村獅童さんはご両親を説き伏せ、「歌舞伎役者」になる了解を得ると、「歌舞伎役者」として邁進しますが、とある歌舞伎関係者に「獅童さんが歌舞伎座で主役をとるのは、難しいと思いますよ。」

と、言われたそうですが、中村獅童さんはそこでスイッチが入り、その方に「どうすれば、歌舞伎でいい役をできるようになりますか?」

と、逆に聞いたと言います。

その際、「とにかく名前を売ってください」と言われ、そこから中村獅童さんは「歌舞伎」と並行しながら、現代劇やテレビドラマなどのオーディションも、受ける日々が続きました。

けれど落選ばかりの日々が続き、中村獅童さんも「自分は役者向いてないのかな」と、何度も思ったと、2021年3月27日に掲載された『産経新聞 話の肖像画(7)』で、中村獅童さんが明かしています。

そんな中でも、中村獅童さんはあきらめずオーディションを受け続けると、2002年7月20日に公開された映画『ピンポン』で、主人公のライバルの1人である、「ドラゴン」こと風間竜一役をもらうと、各新人賞5冠を達成するなどの高い評価を得て、現在の活躍に繋がっていきました。

中村獅童の生い立ちや経歴

中村獅童は1972年9月14日生まれの、東京都出身です。

幼少期の頃から、中村獅童さんは自身を「目立ちたがり屋なんだけど、引っ込み思案という」性格をしていると、2017年5月19日に掲載された『OPENERS』で、明かしていました。

特に、「ヒーロー」に憧れていた中村獅童さんは、マスクを被り風呂敷をマント風に巻いて、自転車を乗りまわしたと言います。

また、中村獅童さんが3歳の頃、ご両親から「豆腐」を買ってくるよう頼まれて、初めての「おつかい」に挑戦。

「おつかい」自体は成功させましたが、実は小さい頃から、神社のお賽銭箱に「お賽銭」が入れるのが大好きだった中村獅童さんは、ナゼか豆腐を買った「お釣り」を下水口へ入れたそうで、「お釣り」が足りないと気づいたご両親に、「中村獅童流のお参り」をしたことを告げ、滅茶苦茶怒られたと、2022年1月8日に日本テレビで放送された『はじめてのおつかい 泣いて笑って3時間 新春の大冒険SP』で、振り返っていました。

さらに、こだわりが一際強かった中村獅童さんは、幼稚園に行く時のに半ズボンが嫌で、お母様を困らせていたほか、校内で騒ぎを起こし、先生に追い回されることもあったと、2016年12月4日に日本テレビで放送されたトークバラエティ番組『誰だって波瀾爆笑』で、語っています。

そんな「奇行」が目立つ中村獅童さんは、小学生時代の通信簿に「落ち着きがない」と、よく書かれていたと、明かしていました。

ちなみに、初恋とファーストキスは、幼稚園ぐらいとのこと。

中村獅童の家系図や家族構成について

中村獅童さんの家族構成は、ご両親のみで、中村獅童さん自身が「一人っ子」で兄弟はいないと、2020年7月26日にTBSラジオで放送された『コシノジュンコ MASACA』などで、明かしていました。

中村獅童さんは、「歌舞伎」の名門である「小川家」に生まれており、

  • 曾祖父様に、三代目中村歌六さん
  • お祖父様に、三代目中村時蔵さん
  • 伯父様に、四代目中村歌六(さん
  • 従兄に、五代目中村歌六さん
  • 従甥に、五代目中村米吉さん
  • 従兄に、三代目中村又五郎さん
  • 従甥に、四代目中村歌昇さん
  • 従甥に、初代中村種之助さん
  • 伯父様に、四代目中村時蔵さん
  • 従兄に、五代目中村時蔵さん
  • 従甥に、四代目中村梅枝さん
  • 従甥に、初代中村萬太郎さん
  • 従兄に、二代目中村錦之助さん
  • 従甥に、初代中村隼人さん

など、数多くの「歌舞伎俳優」を輩出している名家の出身です。

お父様の名前は小川三喜雄さんと言い、『初代中村獅童』として「歌舞伎」に関わっていましたか、「例の事件」を起こしてからは、「歌舞伎」から1番遠い職業である「銀行員」に転身。

しかしその後、お父様の弟さん-中村獅童さんに取っては叔父様に当たる、萬屋錦之介さんと中村嘉葎雄さんが東映時代劇で人気になると、その弟さん達を支えるため、お父様も東映へ入社し、「プロデューサー」として活躍しました。

そして中村獅童さんが生まれ、中村獅童さんが「歌舞伎」をやりたいと言い出すと、「お前の芝居なんか見に行くか、ばか野郎っ!」

と、言うこともそうですが、中村獅童さんのための事務所『中村獅童事務所』の会長を務めたり、中村獅童さんが主役の舞台では、幕が上がった直後から拍手を送るなど、言葉はなく「行動」で息子に対する「愛情」を示してくれることが多かったと、2021年4月2日に掲載された『産経新聞 話の肖像画(13)』で、 中村獅童さんが明かしていました。

そんなお父様でしたが、2008年10月11日に「胃がん」で亡くなってしまいます。

中村獅童さんはその時、大阪・梅田芸術劇場で行われた舞台『黒部の太陽』に出演していたため、お父様の最期を看取ることができませんでしたが、お父様は、「獅童は、親の死に目に会えるような役者でなくてよかったなぁ。」

と、中村獅童さんの活躍を喜び、「獅童には俺のやんちゃで、色々迷惑をかけてしまったけれど、『俺自身の罪』だけじゃなく『獅童の悪い部分』も自分があの世に持って行く。最後に子孝行をさせてくれ。獅童が活躍する姿を、この世ではもう見守ってあげられないけれど、あの世から獅童を見守ってやる。」

と、お父様は最期に言い残したと、お母様が告別式の挨拶で明かしています。

出身校・学歴

  • 明星学園小学校
  • 明星学園中学校
  • 明星学園高等学校
  • 日本大学芸術学部 中退

中村獅童さんの出身校は、小学校から明かされています。

小学生時代から「落ち着きがない」と、よく書かれていた中村獅童さんは、中学校や高校時代でも変わらない「問題児」だったそうで、中村獅童さんが「寝坊」した際には、お母様は家の裏に生えてた竹で「竹刀」をつくり、それを使って中村獅童さんを叩き起こしたと、中村獅童さんが明かしていました。

また、高校時代には人生最大の「失恋」をしていると中村獅童さんは明かしており、高2の時、好きな女の子に告白するため、駅の自転車置き場で4~5時間待ってようやく告白しましたが、結果は振るわず、あまりのショックに、家へバスではなく、涙目になりながら歩いて帰ったとのこと。

そんな中高時代を過ごした中村獅童さんは、当時入院中だったお祖母様の小川ひな(おがわ ひな)さんから、大学へ行くよう勧められていたそうで、「学校さえ行っておけば、『歌舞伎役者』にならなかったときでも、お勤めするときに役に立つから。」

と、アドバイスをもらい、中村獅童さんはそれに従うと、日本大学芸術学部へ進学。

大学では、「バンド」活動や「ラーメン」屋でアルバイト、そして洋服屋巡りで「ファッション」についても学ぶなど、自身の興味や関心を満たしていたと、振り返っていました。

そうやって、中村獅童さんが大学生活を過ごしていく中、中村獅童さんは大学の授業の一環で、「歌舞伎」を舞台からではなく、「客席」から「歌舞伎」を眺めたそうで、憧れの十八代目中村勘三郎さんの舞台を見ながら、「歌舞伎をやりたい」と、強く決意したと言います。

決意した中村獅童さんは、ご両親を説き伏せ大学も中退し、「歌舞伎」に専念していきます。

その際、「例の事件」のせいで心許ない言葉も多く浴びせられていますが、全ての「歌舞伎役者」がそうだったワケではなく、中村獅童さんが復帰してまもないときに、巡業をともにした叔父様の萬屋錦之介さんからは、「顔で芝居をするな。心で演じなさい。」

と、言われ、その言葉は中村獅童さんの「座右の銘」になっていると、2021年3月26日に掲載された『産経新聞 話の肖像画(6)』で、明かしていました。

また、中村勘三郎さんからは、稽古場で緊張して動きがぎこちなくなっていた中村獅童さんに対して、「あのね、あなたが好きなロックンロールでいいんだよ。役者がノッて演じないで、どうするの。ロックのノリでいいんだよ。」

と、パッションとハートについて学んだと、2021年3月28日に掲載された『産経新聞 話の肖像画(8)』で、 中村獅童さんが明かしています。

結婚した妻や息子について

2015年2月1日に、中村獅童さんは『結婚記者会見』を開き、前日に元読者モデルで12歳年下の一般女性「沙織」さんと「再婚」したことを明かしています。

そんな2人の出会いは、中村獅童さん行きつけのアクセサリーショップで店員をしていた奥様に、中村獅童さんが「一目惚れ」したそうで、そのきっかけとして、「僕はこう見えて落ち込みやすくて、家では何もしゃべらなかったりするんですよ。でも彼女はいつも明るくて、この人と一緒にいると、心が晴れやかになれるかもしれないと思ったんです。」

と、2021年4月9日に掲載された『産経新聞 話の肖像画(20)』で語っていました。

1人運命を感じていた中村獅童さんはその後、お店のオープニングパーティーに参加すると、奥様に「パーティーが終わったら、もう1件行きませんか?」

と誘い、中村獅童さんは先に1人でお店へ行き、奥様を待っていましたが、奥様は3時間経っても現れず、中村獅童さんはお酒の力を借りて、奥様に電話をかけたと言います。

実は奥様、仕事を終わらせた後、中村獅童さんの誘いを受けたもののどう「断れば」よいのか上司に相談していたそうで、良い案も浮かばない中、中村獅童さんの連絡が来てしまい、奥様は慌てて中村獅童さんのいるお店へ向かいました。

奥様がお店に着くと、中村獅童さんはいきなり「プロポーズ」をしたそうで、奥様は戸惑いながらも「断り」ます。

こうして奥様にフラれた翌日、中村獅童さんはさすがに急すぎたと反省したそうで、毎日1時間以上の電話や、食事に誘うなどのアプローチを行ったと言います。

そうしていくうちに、奥様は中村獅童さんに「段々と惹かれていったそう」で、2011年には2人の姿が週刊紙に載り、中村獅童さんに報道陣が詰め寄ると、「良いお付き合いをさせていただいています。温かく見守ってください。」

と、交際は順調であると明かしていました。

そんな結婚秒読みな2人でしたが、2012年12月5日に十八代目中村勘三郎さん、翌年12月17日にお母様と相次いで亡くなり、中村獅童さんは憔悴しきったと言います。

しかし、奥様はそんな中村獅童さんを支え、中村獅童さんも奥様の明るさに救われ、2人はお母様の「喪」が開けた2015年1月31日に結婚、同年3月13日に挙式、同年5月に披露宴を行いました。

その後、2017年12月18日に長男の陽喜君、2020年6月27日に次男の夏幹君が生まれています。

長男の陽喜君は、お母様の命日の翌日に生まれ、奥様のアイデアで、中村獅童さんのお父様とお母様の名前から「一文字」ずつもらって名付けられたほか、2022年1月2日から27日に行われた歌舞伎座『壽 初春大歌舞伎』の第1部「祝春元禄花見踊」で初お目見得を果たしていました。

次男の夏幹君も、奥様が名付けたそうで、中村獅童さんの本名である「小川幹弘」から取られたと、2020年7月4日に自身の公式Youtubeチャンネルへ投稿した動画で、明かしています。

元妻は竹内結子さんで子どもは?

中村獅童さんは、2004年10月30日に公開された映画『いま、会いにゆきます』で、夫婦役で共演した竹内結子さんと、2005年6月に結婚と妊娠3ヶ月であることを公表しています。

その後、同年11月に男の子が誕生しますが、2人は2008年2月に、協議離婚を行い、お子様の親権を竹内結子さんが持つことで合意してしまいました。

離婚の理由としては、中村獅童さんは2006年7月12日、酒気帯び運転と信号無視で警視庁に検挙され、その時の同乗者が女性で合ったことだけは明らかになっており、それが原因だと言われていますが、双方どちらも何も語っていないため、真相については何も分かっていません。

ちなみに、中村獅童さんは警視庁に検挙された翌日13日に『謝罪会見』を開き、芸能活動の自粛を発表し、同年9月5日から公の場に登場し、事実上の復帰を果たしていますが、この一連の流れを聞いたお父様からは、「お前は1度死んだほうがいい。」

と、激しい言葉で叱責されたと言います。

一方で、「自分で自分を駄目にするのはお前の勝手だ。だが、周りの人たちに迷惑をかけたことは、承知しておけ。」

とも告げられ、この時お父様との間で、「引き受けた仕事は最後までやり通す」約束を交わしたと、2010年4月11日に掲載された『yomiDr.』で、振り返っていました。

そんな「悪い部分」が目立つ中村獅童さんですが、自身が「再婚」する際には、竹内結子さんとのお子様の了解を経て結婚したと語ったほか、2020年9月27日に竹内結子さんが急逝すると、お子様を引き取るべきか悩みましたが、竹内結子さんの再婚した旦那様が育てて行くことを人伝に聞くと、「必要あらば、父親としてサポートする。」

と、語ったとのこと。

病気はガンで再発してない?

中村獅童さんは2回の大病を患っており、1回目が2011年に発覚した血管の壁にコブができ、そこに血が溜まることで破裂し、くも膜下出血を起こす「脳動脈瘤」で、2回目が2017年に発覚した「肺腺がん」です。

1回目の大病である「脳動脈瘤」は、中村獅童さんと奥様がまだ付き合いたての頃、中村獅童さんが一度も「人間ドック」を聞いた奥様は、半ば強引に中村獅童さんを「人間ドック」を受けさせたときに発覚しました。

その時は、初期症状かつ放っておくと治る可能性もある、小さな「血栓」が見つかっただけのようで、お医者様から「半年ごとの人間ドック」を勧められたのみに終わったと言います。

その後は、「半年ごとの人間ドック」で経過を観察するも、「異常はなかった」そうですが、異変が起きたのが4年後の挙式10日前のこと。

中村獅童さんはビールを一口飲んだだけで、顔が真っ青になるほど酷い吐き気に襲われたそうで、奥様の脳裏には、すぐ「脳動脈瘤」の可能性を思ったといい、2人はすぐ病院へ行きました。

すると、奥様の予想は的中し、「脳動脈瘤」のゴブが大きくなっていると診断されたと、2018年1月5日にTBSで放送された情報・教養バラエティ番組『中居正広のキンスマスペシャル 中村獅童ガンからの復活、新たな命…歌舞伎界の絆』で、語っています。

しかし、その時は仕事が立て込んでおり、すぐには手術ができなかったそうで、仕事が一段落したその日に、中村獅童さんは再び酷い吐き気に襲われ、そのまま入院、手術となり、お医者様からは「ぎりぎりセーフだった」と、はっきり口にだして言われたと、振り返っていました。

2回目の大病となる「肺腺がん」も、きっかけは奥様から強く求められた「人間ドック」による再検査でした。

中村獅童さんの「肺腺がん」のステージは「1a」の初期状態だったそうで、お医者様からは、「今見つかったのが奇跡的の早期発見で、すぐに手術をすれば完治する。」

と、言われ、抗がん剤治療も必要なかったと、2017年5月18日に松竹より発表された『中村獅童さん直筆のコメント文』で、明かしています。

二度に渡り中村獅童さんを救った奥様、中村獅童さんはそんな奥様について「とても感謝している」と、話していました。

ちなみに、2回の大病の内2回目の「肺腺がん」のみ世間に公表した理由については、事前に入っていた舞台を「降板」しなければならなかったからだと、2021年4月4日に掲載された『産経新聞 話の肖像画(15)』で、 中村獅童さんが明かしています。

また、2022年2月現在まで、中村獅童さんのがんの再発は起きていません。

中村獅童の自宅がすごい!

2020年6月21日に自身の公式Youtubeチャンネルへ投稿した動画で、自宅の「シアタールーム」と「衣装部屋」を、長男の陽喜(はるき)君と一緒に紹介した中村獅童さん。

動画内では、明かされた中村獅童さんの部屋の内装は、コンクリート風の壁が特徴となっています。

また、引っ越して間もないことの撮影だったようで、部屋のすみにダンボールが置いてあったり、まだ片付けきれてない本が重ねられている様子などを確認できます。

「シアタールーム」では、本格的な「スクリーン」と壁一面のミラーが確認でき、テーブルの上には「サングラス」が多く並べられていました。

そんな本格的な「スクリーン」があるため、子供には触らせない方が良いと助言をもらい、実は「シアタールーム」に入ったことがなかった陽喜君。

幸いにも、陽喜君は「スクリーン」に興味を示しませんでしたが、標的になってしまったのが「サングラス」で、ヴィンテージのもう売ってない「サングラス」を床に投げられ、中村獅童さんが慌てる一幕も。

「サングラス」を取り返した際には、「こういう所に、置いておくもんじゃないね。」

と、反省の言葉を呟いています。

壁一面のミラーの裏手にある「衣装部屋」では、天井からつり下がった棒に、所狭しと衣装がかけ並べられており、カメラマンが「洋服屋さんみたいですね。」

と言うと、中村獅童さんは「洋服屋さんみたいにしたかった」と応え、洋服屋のプレスルームなどをデザインした方に、相談してもらい作ったと明かしていました。

ちなみに動画内では、中村獅童さんが大ファンだという『スパイダーマン』のマスクが登場しており、カメラマンからは、「前に、変なスパイダーマンの格好してた。」

と、2014年4月15日に開催された『アメイジング・スパイダーマン2』の公開記念イベントの時の格好を突っ込まれる一幕も。

ですが、後の2021年8月15日にTBSラジオで放送された『爆笑問題の日曜サンデー』で、この時着ていたスーツは特注でかかった費用は「100万円」だと明かし、「本気でやっていた」と、語っていました。

そのほか、中村獅童さんの公式Youtubeチャンネルでは、「リビング」や「浴室」なども公開されています。

中村獅童の近況

「歌舞伎」では、2021年4月24日・25日に『ニコニコネット超会議2021』で公演された超歌舞伎『御伽草紙戀姿絵(おとぎぞうしこいのすがたえ)』、2022年1月2日から27日に行われた歌舞伎座『壽 初春大歌舞伎』に出演したほか、2022年4月29日・30日に『ニコニコネット超会議2022』で、『永遠花誉功(とわのはな ほまれのいさおし)』に出演することが決まっています!

また「ドラマ」では、2022年1月9日からNHKで放送されている大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にて、梶原景時役で出演中です。

そのほか、2022年2月1日から上演中のコクーン歌舞伎第18弾「天日坊」上演中に「新型コロナウイルス」に感染したと、松竹の発表で明かされていましたが、2022年3月9日に投稿した自身のインスタグラムで、「本日よりお仕事再開させていただきます。ご心配、そしてご迷惑をおかけした皆様へ、改めてお詫び申し上げます。」

とコメントし、「無事に復帰した」ことを明かしていました。

歌舞伎で生きたいと願うも、歌舞伎から否定されるという境遇だった中村獅童さん

しかしあきらめることはなく、遠回りをして得た数多の知識も、新たな歌舞伎の可能性として取り入れています。

そんな研磨されていく伝統を紡ぐ中村獅童さんに、これからも目が離せません!