大村崑の現在はライザップ通いなの?身長や年収も調べてみた

  • 大村崑は1931年11月1日生まれ
  • オロナミンCのイメージキャラクターとして看板が設置された
  • ライザップに通って体を鍛えている

大村崑のプロフィール


名前 大村崑 (おおむらこん)
職業
所属事務所
誕生日 1931年11月1日
年齢 93歳
身長 160cm
血液型 O型
出身地 兵庫
外部リンク

 

性格

  • 人を喜ばせることが好き
  • 向上心がある

小学生の時からクラスメイトを楽しませていて、人を喜ばせることが好きな性格です。

また向上心があり、90歳を超えた今でもライザップに通って自身を鍛えるなど向上心があります。

 

特技

  • 日本舞踊
  • 殺陣

大村崑は若い頃からコントなどで殺陣を披露していて、切れ味のある動きを見せています。

趣味

  • 相撲観戦
  • メガネの収集

大村崑は相撲観戦が好きで、相撲中継に観戦してる姿が写り込むことが有名、前から3番目の席を取って、あえて中継に映ることで本当に相撲が好きだとアピールしていると明かしました。

毎回映っているため生存確認の場にもなっていて、中継で確認できないときには死亡説が流れるほどだと語っています。

またメガネを集めることが好きな眼鏡コレクターで、大村崑のコレクションを福井県鯖江市にある「めがねミュージアム」で無ることができます。

身長

大村崑は身長160cmで、同じ身長の芸能人には、

  • 加藤諒さん
  • 濱田岳さん
  • 出川哲郎さん
  • 松田聖子さん
  • 菅野美穂さん

など個性豊かな男性芸能人や知名度の高いアーティストや役者が多くいます。

年収

大村崑の年収について情報はありませんでした。

現在90歳を超えたので年金をもらっていると考えられますが、現在も映画への出演を続けていて、2023年に公開の映画で主演を務めています。

90歳を超えて出演料が入ってくるので、一般的な90代よりかなり多くの年収があるのではないでしょうか。

デビューのきっかけ

大村崑は20歳手前に肺結核を患い右肺を切除、医師からは「あなたは40歳まで生きられないだろう」と告げられました。

限られた命ならばと、亡き父の影響で好きだった、喜劇の世界へ足を踏み入れることを決意。

1953年、大久保怜に師事し司会の勉強をした後、1957年に大阪梅田の映画館「北野劇場」専属コメディアンとして舞台に立ったことがデビューのきっかけです。

オロナミンCの看板になってたの?

大村崑は大塚製薬のCMに起用されることが多く、1965年から放映されたオロナミンCのCMに出演していました。

昭和40年代、街中に「ソフト帽にずれ落ちた眼鏡姿」でオロナミンCを手にする大村崑の看板が設置。

看板のインパクトは抜群で、大人から子どもまで知らないものはいないと言われるほど有名でした。

ライザップで筋トレしてるってホント?

大村崑は2018年から奥さんに誘われてライザップに通っています。

最初は「80代にもなってトレーナーに教えてもらうなんて嫌」と言っていましたが、体験に行き通居たと思い入会を決めます。

火曜と金曜の週2回、1回1時間程度の筋トレをしていて、スクワットを15回×3セットやバランスボールにもたれてのトレーニング、マシーンを使った筋トレをしています。

始めた頃は筋力が少なく疲れがかなり出ていましたが、今では40キロのバーベルを持ち上げられることができるほどになっていて、今が一番若いと語りました。

結婚した奥さんとの馴れ初めは?

大村崑は1960年に岡村瑤子さんとの結婚を発表。

2人は1959年に瑤子さんがテレビ番組のオーディションでディレクターを訪ね、その場にたまたま大村崑がいて目が合ったことがきっかけで出会いました。

お互いひとめぼれをしてすぐに交際に発展、交際8ヵ月で結婚に至りスピード婚ということでメディアで大きく取り上げられました。

結婚式は1960年3月1日に大阪・天満宮で行われ、3組合同の結婚式のテレビ結婚式が放送されています。

また2010年にロイヤルホテルで金婚式を挙げて話題になりました。

大村崑はどんな人?生い立ちや経歴について

大村崑は1931年11月1日生まれ、兵庫県神戸市長田区東尻池町出身です。

幼少期から裕福な家庭で育っていて、父親に連れていかれた劇場の舞台で劇団の人たちに可愛がられ、舞台に上がることもありました。

学校を卒業後、神戸のキャバレー「新世紀」のボーイなど仕事をしていましたが、20歳前に肺結核を患い右肺を切除。

医師から40歳まで生きられないだろうと告げられたことで、限られた命ならばと思い立ち、喜劇の世界へ足を踏み入れることを決意しました。

1953年、大久保怜さんに師事して司会の勉強をしたあと、1957年に大阪梅田の映画館「北野劇場」専属コメディアンとして舞台に立ちます。

コメディアンとして活動する中、一時吉本興業に所属しますが、ギャラの問題が生じたため短期間で吉本興業のマネジメントン契約を終えました。

この頃から「ズレ落ちたロイド眼鏡」ととぼけた芸風でテレビに進出、1958年に放送された「やりくりアパート」の学生役で人気を得ます。

1959年に出演した「番頭はんと丁稚どん」の丁稚崑松役でさらに知名度をあげ、同年「劇団・笑いの王国」の結成に携わり、座長に就任。

「頓馬天狗」の主役を務め、とぼけたキャラクターながら、毎回身軽でトリッキーな殺陣をみせる大村崑の「尾呂内南公」は当時の子供たちを中心に絶大な支持を受け「崑ちゃん」の知名度を全国区に広めた。 

1965年「日清ちびっこのどじまん」の2代目司会者に抜擢、4年間にわたり司会を務めています。

1971年、日本テレビ「おはよう!こどもショー」で「こんちゃんのトンカチうたじまん」がスタートすると、こちらも4年半にわたる人気コーナーとなりました。

1970年日本万国博覧会「こどもの祭り」を演出・司会を担当して子ども向けの番組やイベントに出演する一方、ドラマ「細うで繁盛記」で板前・善三役で出演し、コミカルな演技から脱却した渋い演技で新境地を見せました。

1972年には花登が新たに結成した『劇団「喜劇」』に参加、再び劇団の主軸を支えていきます。

以来、主な活動の場をコメディーや司会から、俳優中心にシフト、ひょうひょうとした持ち味以外にも激しい気性の役どころなどもこなして、演技の幅を広げながらキャリアを積みました。

その後は情報番組のコメンテーターや、講演活動などもこなしていき、多くのジャンルで活動を続けています。

1989年、58歳の時に大腸癌を患いましたが、内視鏡手術で切除、その日のうちに『午後は○○おもいッきりテレビ』の生放送にも出演して話題になりました。

出身校・学歴

  • 神戸市立第一機械工業学校 卒業

小学生のときは教室で落語や寸劇をしてクラスメイトを笑わせていたことに喜びを感じていて、クラスの人気者でした。

しかし9歳で父親が亡くなり、伯父夫婦の養子になってからは暴力を伴う教育を受けていた影響で、好きだった落語はやめ不良グループに入り、喧嘩に明け暮れる毎日を送っていたと明かしています。

コメディアン・大村崑についてまとめました。

若い頃に40歳まで生きられないと言われていますが、90歳を超えた今でも元気に活動しています。

2023年に公開の映画も決まっているので、今後も元気な姿を多く見れることに期待しましょう。